第24回 『ジャズの種』

 意外に思われるかもしれないが、何を隠そう私は大学時代にジャズ研究会というサークルに所属していた。
そもそも通っていた大学は美術大学なので、そのサークルに集う若人達はみな美大生という事になる。
美大というところは案外忙しいところで、私がいたデザイン科では「課題」と称される宿題がどっさり出される。要領良くこなしていっても週に一日くらいは徹夜をする事もあって、やっとこさ提出日に間に合っても作業が雑だったりツメが甘かったりすると教授から再提出を言い渡される。そうなると材料も無駄になるし作業も二度手間になって大変な思いをする。
なので、多くの学生は言われなくても最初から極力キレイな仕事を心掛けるのだが、まず課題をキレイに仕上げるためにはそこそこの道具を購入しなければならないし、ちょっとした複写や焼きを外注に出すこともある。
そしてそのための費用はもちろん学生が自分で負担するのだが、これが本当にバカにならない金額になってしまう場合がある。親元から離れて東京で一人暮らし、きまった仕送りで何とかやりくりしなければならない貧乏学生にとって、この課題制作のための出費は時としてシャレにならない痛手となるのだ。

日々の食べ物にさえ事欠く生活。
大学が東京都内とは言え、かなり郊外に在るため、校舎のまわりには農業を営んでおられるお宅が多く、民家や背丈の低い共同住宅の合間を縫うように田畑が広がっていた。
「このキャベツは虫が食っていてやや痛んでもおり少々カラスに突かれてもいるのだから、およそ商品としての流通は適うまい。せっかく農家の方々が大切に育てた有り難いキャベツなのだ、いずれゴミとなって捨てられてしまうのならばここはひとつお節介を承知の上でオレが食ってしまうなんて事が親切以外のナニカになろう筈もなし・・ブツブツ・・・」
みたいな事を一人ごちたかどうだか定かでは無いが、大学付近の安アパートに住む学生などは夜中に近所の畑から、多少いびつだったり虫食いが激しかったりで持ち去っても罪の意識に苛まれない程度に不出来と思えるキャベツや大根などを黙って失敬して来てしまうらしい・・・という噂を耳にしたものだ。
こんな涙ぐましい状況なのだから、もちろんアルバイトのひとつでもしてお金を稼がなければ、課題を仕上げるための経費すら捻出できない。
とまあそんなこんなで、美大生というものは大抵忙しくしているものなのだ。

大学での最低限の学業を成立させるだけでも時間やお金が不足しているというのに、この上「音楽」などという面倒臭い趣味に精神と体力を注ぎこむ酔狂な学生達がいた。
────書き出しにある通り、私もその物好き達の一人なのだが、乱暴にもやや傍観者的な立場で、無責任に書き進めてみようと思う────
ロック研究会、軽音楽部、フォーク研究会、モダンジャズ研究会、その他にもいろいろ・・・。一般大学にくらべてかなり数は少ないものの当時のどこの大学にも見られるごく普通の「音系サークル」のラインナップだが、よーく観察してみると、何かが違う。
大学が承認した音系サークルには敷地内に練習場所が与えられていて、それが今にも壁が剥がれ落ちそうなボロ長屋なのだ。おまけに練習で大きな音を出さざるをえない集団のため、普通の学生がまず寄り付かないような敷地構内の隅っこに追いやられていた。
・・・これだけなら何も特異ではない。どんな時代もバンドを組んで何か楽しい事を企む人間達のうろちょろするエリアというものは、どこかラフで独特のズサンさが漂うものなのだ。
でも何かが違う。
私は母校だけでなく色んな大学の音系サークルに所属した経験があるので、その時代の大学の音系サークルの空気のようなものをあくまでボンヤリとだが直接肌で理解しているつもりではあるのだ。

当時の私は、一つの大学の特定のサークルに骨を埋めるような一途な学生からは眉をひそめられるほど、あちこちの集団から集団へと飛び回っていたような気がする。何せ母校だけでも最初に書いたモダンジャズ研究会の他にローラースケート愛好家のサークルや太極拳の同好会にまで参加していたのだ。留年もせず無事に卒業できたのは本当に謎だ。
学生食堂でローラースケートを履いたまま嬉しそうにチョコレートやアイスキャンディーを食べていたかと思えば次の瞬間には真剣そのものの陳式太極拳の群れの一部に同化している、と思えば出鱈目なFのブルースに興じた挙げ句、家に帰れば「課題」に大わらわといった具合で、行動の一貫性に欠けること甚だしい女子大生だった。
学外でもあちらこちらに顔を出していたわけだから、色んな事が身についたかどうかは別にして、お陰さまで見聞だけは大いに広がった。その結果、母校に集う学生達が世間一般的な風潮からどうやら大幅にズレているらしいと感じたのも事実で、更にその中でわざわざ音楽でもやってみようかという人々は、良い意味でも悪い意味でも明らかに「少数派」だったろう。
そして、何かが違うと感じていた私は、おそらくどこにも居場所を求めず、常に浮遊するヒトだった。母校の仲間達とも学外の友人達とも完全には交わらない、宙ぶらりんなスタンスに今思えば居たのだ。
彼等の何がどう違っていたのか、上手く説明できないが、どこかで自分達の本来進むべき分野とのバランスを取りつつそのバランス感覚を音に反映させる醒めた視点がまず前提にあったように思う。そうした上でとことん激しく音楽に心酔する、ネジれた温度があった。
いい若いモンが「楽しいから」とか「音楽が好きだから」という手放しの純粋な動機から距離を保ちつつサークル活動に没頭するなんてどこか変ではあるけれども、その方がむしろ相応しく、ある意味成熟した思考に思えて、そんな彼等が無気味ではあったし面白くもあったのだ。

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ところが。
そんな企み好きで屈折していて理屈が大好きな変人揃いの母校音系サークル長屋の住人達の中で、前述のバランス感覚や企みとは無縁の集団が存在した。
私が所属していたモダンジャズ研究会、略してジャズ研だ。
主にスタンダードなモダンジャズを愛し演奏する人々のサークルで、ジャズにまったく明るくない私がなぜにそこに納まっていたのか、いまだによく分からないが、何となく気がつけば入部していたのだった。

ジャズ。
それへのただならぬ愛と豊富な知識、何よりテクニックが無ければ、まず演奏が成立しない。そのためには練習が不可欠で、とにかく研鑽を積むところから全てが始まる。過去の名演奏家達の音源をいかに多く聴いているかによってもその人間の中のジャズ度が決まってくる。無知は通用しない。
とても型がはっきりとしているジャンルなので、つべこべ言う前に、まずお手本を鑑賞。鑑賞、感動、練習、反復。余計な事を考えたり、コンセプトだ時代性だなどと屁理屈をこねている暇があったらスケール練習をして気の利いたフレーズやテンションコードのボイシングでも追求せよ、と言われてしまうのである。
しかしそこは多忙な美大生。そうそう練習ばかりに明け暮れてもおれず、テクニックに磨きがかかる前に卒業式を迎えなくてはならないパターンも多いようだ。社会人やフリーのデザイナーになってもなぜか趣味はジャズ一辺倒という人が珍しくないのは、そのせいかも知れない。とにかく道のりが果てしなく長いのだ。

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先日何十年ぶりかでその母校ジャズ研の大規模なOB会が偶然にも馴染みのバーで催されたので、出席してきた。
懐かしい旧友達に会えるだけでも私の心の中は大騒ぎなのだが、とにかく一回は演奏しなければならない事になっていて、これには困ってしまった。今の私の身体中、どこを探してもジャズを見つける事は出来そうにない。しかも成りゆきで何となくそうなったとはいえ現役の音楽家なわけで、だからといって渋いモダンジャズ一色でノリノリ大盛り上がりの店内でジャズとはまったく無縁のオリジナル曲を無神経に我が物顔で演奏するわけにもいかず、「あーどうすればよいのおぉぉ」と複雑な思いを抱えたままグラスを重ねていた。
それにしても何故みんなそんなに学生時代とほぼ変わらず4ビートをきざめるのか。当時より格段に上手くなっている人もいたりする。どうやら郷里でジャズバンドを結成して仕事の合間に練習に励んでいるらしい。
メディアでも知られるベテランのカーデザイナーが必死な面持ちでウッドベースと格闘している。最新のトレンドを携帯電話機に投入した凄腕のプロダクトデザイナーはトランペットを吹きながら顔をクシャクシャにして今まさにトランスの境地に入らんとしている。インテリア界の新鋭もトリッキー且つ華麗なピアノプレイをがんがん展開させている。
こんな正統派のジャズを生で聴く機会は私の音楽生活ではまずあり得ないだろう、とまで感じた。第一みなさん本業外なのだ。だからこそ、なのか。利害やプライドや立場やイメージ構築を排除した、ざっくばらんであって妙にスッキリした音空間だった。

いちいち感心させられたり、思わぬ人との再会にハイテンションになっているうち、いよいよ私の番が来てしまった。
結局ピアノはほとんど触らず、じゃあ歌でも、とお茶を濁そうにも「あれ、どんな曲があったっけ・・」という情けない状態。メロディーは覚えていても歌詞がまったく蘇ってこない。
通常ジャズを歌う人はアマチュアであっても常時何十曲は何も見ずに歌えるものなのだ。伴奏をお願いするミュージシャン達にタイトルとキーの指定だけをしてスマートに歌い出せるものなのだが、まともに最後まで歌える可能性のものがゼロとは、大学時代の私を知るまわりの旧友達も驚いているようだった。えーい仕方ない、こうなったら造語だ造語! 
何とか無事に始まった歌はどこの国の言葉でもない摩訶不思議な「ムーンリバー」。映画『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘップバーンが窓辺でギターをつま弾きながら可憐に歌う、あまりにも有名なアノ曲。希代の名曲をとんでもないハナモゲラ語で聴くことになった人々の表情はどこか複雑だったが、どうにかこうにか歌い終えることができた。
近年には珍しく大慌ての夜。
スタンスだのバランスだの七面倒臭いことにこだわらず、「好きだから」という気持ちだけで充足感を得られるなんて、これはやはり素敵なコトに違いない。切り替わるモードはどんなにたくさん持っていたって、かまわないのだ。新たなる認識。

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その新たな認識とともに、消滅しかけていた、ある記憶が蘇った。
大学三年の時、とあるきっかけで、大変にテクニックのあるプロのジャズトリオを紹介されて、そこで歌を歌っていた事があるのだ。
とあるきっかけを話すと長くなるので割愛するが、ようするに何としても私にジャズを歌わせたいと考える人が何人かいて、その人達の言いなりで面白半分にのこのこ出向いて行ったのだが、これがほぼ弟子入りに近い感じだったのだ。
あるドラマーの方が率いるトリオで、その方はとにかく英語の発音と音程に厳しかった。少しでも発音が不明瞭だったり音程が甘いとメチャメチャに注意される。根性の無い女子だったら泣いて帰るぐらいの厳しさだったが、学生だという立場の気楽さもあり、半年間ほどお世話になった。

マナーを含めて色んな事を教わったが、とても印象に残っている情操面でのアドバイスがある。
ジャズを歌う女性というものは、とにかくいつでも恋をしていなくてはならない。恋人は常に大勢いすぎて困るぐらい、もつれた人間関係で面倒が起きるぐらいが普通で、「いま男が居ないのぉ」という時期でも三人はいるくらいじゃないとダメ。あなたももっと大人になったら、とにかくまず恋人をたくさん作ること。わかりましたね。
・・・・と冗談ではなく真面目にアドバイスされた時、一応は素直に頷きながらも私の目は完全に点であった・・・。やはり私には向かないジャンルであることをうすうす予感していたのだろう。

どんな人達と出会うかはまさに偶然に委ねられていて、そうして形成されたジャズへの私なりの「思い」は偶然を経た必然として、しっかりと心の中にある。プライベートで面倒な事が起きるほど恋多き女にはついぞならなかったが、遠い昔、無造作に蒔かれた種は、発芽の可能性を抱きながら私の体内で永久に熟成を続けるのだ。

(了)-2002.2.4-