第19回 『見た事ないもの聞いた事ないもの』

 生まれて初めてマイクに接したのは、いつ頃だろう。
幼稚園の催し物で園長先生がお話しになる時にいつも握っているモノ、たまにヒャ〜ンと大きな音がして皆で耳を押さえて大騒ぎするモノ、そのどさくさに紛れて隣の女の子のスカートをめくる不届きな男子を信じられない位の大音響で叱りつけるモノ、必ずお話しの前にはポンポンと叩いて調子を見るモノ。
ヘンな道具。ヘンな声。あんなに優しい園長先生の声がビリビリと意地悪な感じになって、おまけに独特の帯域のバランスに頭がキンキンしてくるので私は大嫌いだった。
特にあのヒャ〜ンは前歯にしみる様な音で、いつ来るかいつ来るか本当にビクビクしていたものだ。
何しろひどい音質だった。
当時市販されていたマイクやスピーカーの性能の問題というより、正しいマイクの扱い方を殆どの人が知らなかったためにマイクの劣化が激しかったせいもあるだろう。力まかせに毎度ポンポン叩かれてはどんなに良いマイクもすぐにダメになってしまう。
そう言えばカラオケ屋さんに置いてあるマイクは、あれほどの酷使されているにもかかわらず割とまともだったりする。やはり技術の進歩か、タフでそこそこ性能も良いマイクが量産されているのだ。

 カラオケに率先して行くタイプではないが、たまにおつき合いで御一緒すると2時間位の間に今現在ヒットチャートにある曲のほとんどを聴けるのだから驚いてしまう。次から次へと、サビだけは聞き覚えがある様な曲を、一体どこで習得するのか訊いてみたくなるほど正確無比に人々が歌いこなすのを面白く眺めている。
中途半端に上手いオトナのカラオケより、原曲に忠実であろうとする子供達の達者ぶりがいじらしい。順番を奪い合いながら、とことん歌いまくる。こんなに幼いうちからマイクで拡声された自分の声を聞いていれば、いざテープレコーダーから流れてくる我が声に「えっ、私の声はこんなに変な声だったのか!」と愕然とする事も無いんだろうなあ。子供時代、テープに録音された自分の喋り声がどうしても他人の声にしか聞こえずガッカリした経験がある人も多いのでは無かろうか。
もの心ついた時からカラオケやプリクラが巷にあふれ返っている世代って、さぞかし自分の姿や声を人生の早いうちからしっかり認識しているのだろうと思うのだ。羨ましい。

 最近デジタルカメラを購入した。
まわりの友から比べると、とても遅ればせながらの入手なので嬉しさもひとしおだ。ガサゴソと箱から取り出してマニュアル確認もそこそこに先ず撮影したのは、愛すべき我が顔なり。次に犬達。最後に旦那。
自分で撮ってみた自分の顔は、自分でありながら自分でない様な妙な感じ。さっそく親しい人々にメールで送りつけては喜ぶ。
CDジャケットやポストカードなどでたびたび私を撮影してくれている松尾宇人くんにも送ったところ、
「普段のダリエさんとも僕が撮ったダリエさんとも違う。そこが写真の面白いところ。」
との含蓄のあるお言葉を頂いたのだった。
ふむふむ。


こんなに近くに存在するのに私の目は私の顔を直接見る事が出来ない。誰よりも近くで私の耳が聴いている私の声だって、客観的なものではない。
自分自身の顔や声って、みんなどの程度知っているんだろう・・・・。

 一時少し知り合いだったプリクラ好きな女の子の「プリクラノート」なるものを見せて貰った事があるけれど、何千枚という大量のプリクラがびっしり貼ってあって、そのほとんどが一人で写っていて異様だった。彼女がとっても可愛い妖精のようなルックスの持ち主なだけに、「うっ、コイツ危ないかも・・・」と、さすがに警戒の念を禁じ得なかった。
「こういう機種の時にはちょっとソフトフォーカスっぽい方がキレイに写るからこの位の距離で顔の角度はやや上向き、あんまり目を大きく開けない方が美人に写るの。」
そんな工夫なんかしなくたってアナタ充分美人なんだから、と言いかけてやめた。人にはそれぞれ自分だけが納得できる基準があって、他人が何と言おうとそれは絶対なのだ。
それに彼女の素人離れした美しさは、生来の恵まれた容姿に加えて数千回にも及ぶプリクラ撮影によって磨きこまれた、努力の賜物であるかも知れないのだ。お金だって相当かかっている。
自動車免許の更新のたびに、実際の顔の不出来を棚に上げて免許証写真の写りの悪さを嘆く私の様なドシロウトとは気合が違うのだ。
プリクラ好きの彼女は、プリクラというメディアの中では充分過ぎるくらいに自分の顔を熟知していたと言える。どこでどうしているだろう、今でも日夜プリクラマシンの中で自らの美貌と厳しく向き合っているのかも知れない・・・お互い名前も素性も知らない同士だったが、彼女がその後どう変化してゆくのか、ちょっぴり見届けたい気もした。

 そう言えば少し前に雑誌を読んでいると、写真写りに関する記述があって大いにウケた。
合コンなどでのスナップ写真で必ず奇麗に写る必殺マニュアルを伝授するというもの。大まかなポイントを覚えている限りあげてみる。
───楽しく歓談している最中でも周囲に目を配り、誰かがカメラを取り出しそうになるのをいち早く察知し、お化粧直しをするためにトイレに立った際さり気なく席を移動する。
───なるべく体格が良く大きな顔のイカツイ男性の隣に移動する事。なぜなら写真におさまった時、実物より多少は華奢で小顔に写る確率が高い。
───大顔の男性の片脇がすでに小顔の美人で埋まっている場合、間違ってもその反対脇に行ってはならない。3人で寄り添って写った場合、男性の大顔と自分の顔が同化して、あなたは完全にその小顔美人の引き立て役になってしまうので注意する事。
などなど。

 吹き出しそうになるほど大真面目な説明に加え、これでもかと言うくらい残酷なスナップ写真の一例まで載っていた。勇気あるモデルとなったのは編集スタッフさん達だろうか、あまりにも説明に忠実なスナップ写真には思わず唸ってしまう程。ホントにこんな感じで写っちゃうんだ〜、と気の毒に思いながらも妙に感心したのであった。 
写真は残るもの。女性として少しでも可憐に写るにはやっぱり計算が必要ですよ、という事らしい。そう言えば居ます居ます、どんな雑多な集合写真でもちゃっかり綺麗に撮られてしまう、スナップの被写体の達人みたいな人。
お酒の席だというのに顔色も変わらず、盛り上がり過ぎてテカテカに満面の笑顔になっている女友達の横でバランスのとれた好ましい微笑みを瞬時に作れる人。
個人的にはとても羨ましい。何しろ羽目を外し過ぎて、写真を撮られていた事さえ覚えていない失態もしばしば・・・。

 合コンなんて縁の無い世界に住み暮らしてきたので実際どんなものなのか想像もつかないが、どうせ出席するのなら男性諸氏の注目を集める麗しい存在でありたいと、合コン派女性(?)の多くが願っているのだろう。たかがスナップ写真に関する些細なアイディアがとてもメジャーな雑誌の企画になり得るのだから、呑気にウケてばかりもいられない。
確かに常に可愛く写っている人ってそれなりのノウハウを駆使する確信犯だと考えられなくも無いけれど、それ以前にそういう人は自分を冷静に見つめる客観性に長けているのだ。ああ、見習わねば。
先程の記事を読むうちに、こんな解釈がひそかに私の中では成立したのだった。
「己の美貌や欠点を冷静に計る事ができる、そう、峰不二子の如きしたたかさを備えて合コンにのぞもう!」
・・・・・?


熟練した歌い手は、自分の声が今聞き手にどう届いているのかを完全に把握している。ノドの筋肉や息の量を調節し、イメージする声に限り無く近づけようとする。
その言葉を語る声がリアルに聞こえるにはこんな声でありたい、そんな声で歌う私はこんな風な女でありたい、そしてそんな女はこんな表情をしてこういう仕草で歌を伝える・・・・文章にすると大袈裟だが魅力ある歌い手にとってはごく自然の行為だろう。自分の魅力に効率良く結びつく方法を常に模索しているのだ。
自分をコントロールするためにはとことん自分と向き合って、自分を把握していなければならない。本当に素のままの、正真正銘飾らない、どこにも工夫の無い露出なんて全然魅力的ではないと思うし、肉体という最大最強の道具を最終的に操るのはやっぱりその肉体の持ち主なのだ。

 とりとめも無くこんな事を考えていると、とある優秀なアーティストの事がぼんやりと頭に浮かぶ。
とても若くして自分を知り、何が効果的で何が致命的なのか、何が自分を生かして殺すのか、無気味なくらいに判り過ぎているかの様に見える彼女の到達地点を思うと、頼もしくも少し寂しくなった。
伏せられたカードが一枚ずつ開かれては変化する自分を楽しみ、ほんの少しだけ成長する。一生裏返しのままのカードがあっても、それはそれで幸せな事なのかも知れないなあ、とも思うのだ。

(了)-2000.5.25-