第14回 『百葉箱』

 天真爛漫な人が、最近まわりに少ない。
少ないと言う表現は多分正しくない。
天真爛漫だと思い込んでいた人が「実は私はとても内省的な精神生活を送る事が好きなのです」とでも 言いた気な、どこか浮かない顔つきをしている風に見える・・とでも云おうか。ああ、この人はこんなに影の多い額の持ち主だったかなあ、と。
またある時は、「もっと眉間の開いた菩薩顔の美人だった筈だが、はて・・」、と他人事ながら心配になったり。
意外な人の意外な邪気を感じて、意外な思いをする事もある。
と、これはあくまでぼんやりと過ごしていて感じる、単に印象だ。  

 何も考えずにテレビを見ていて、ある時ふと「このタレントさんは最近よく顔を見るけれども、その頻度が今一つ魅力に結びつかない。たくさん露出をさせているという事は周りが彼女に期待を 寄せているからだろうけど、もっと自分を出し惜しむセンスがあると良いのに。
こういうタイプの人は安手の番組の中ではむしろ窮屈なのではないかしら」とか、御本人が聞いたら「せっかくいっぱいお仕事GETしたのに大きなお世話!」となじられそうな、でも毎日毎日何となく メディアと接している中から自然に浮かび上がって来たごく素直な感想。
例えて言うなら、そんな風。
もっと平たく言い換えるなら、別に何の根拠も無いけれどチョット感じてしまったという程度。
でもチョット感じちゃった位じゃわざわざ書く程の事でも無いのだから、コレはやっぱり「何となく なんだけど、すごく気になってる」のだろう。

   「何となく」過ごす、「何となく」電話でお喋りする、「何となく」知人からの
メールを読む、「何となく」髪を切る。

 「何となく」生活しているのだ、特に強い思いに囚われる事も無く。
突如噴き出してくる正体不明の魔物めいた感情に翻弄され、思いきり我が身に新陳代謝を強いる劇的な生活を送っているわけでは無い。
思えばそうした冒険めいた生活が大層楽しかった時期もあるが、今は違う。
少なくともここ最近は特定の誰かを苦手だと感じてイヤな思いをする事もめっきりなくなり、ふと気がつけば見晴しも良く、どんどん生来のノンビリ度が増している。
にもかかわらず「何となく」気になる、ざらつく、素通りする、逆転する、ひんやりとさせられる・・・。  

 一方、普段あまり言葉を交わす事の無かった人々が、ひょんなところから実はとても好ましい心の磁場の持ち主だと知り、半信半疑ながらも嬉しくなる様な出来事が幾つかあった。
嬉しくなっていたのは残念ながら私だけかも知れないが、しかしその交流には言葉だけの コミュニケーションでは成立しない、人間本来の才能に寄りかかった「場」の色彩を感じた。
開かれた精神状態でなければ、きっと私は何も気付かずに通り過ぎてしまっていたのだろう。

 近頃にしては珍しく楽な構えで生きているのか、垣根を張り巡らせていない無防備で無頓着な無頼。
そして何故か総じて無口な印象が残る。過剰な自己アピールとは無縁だけれども聡明な脳波が確かに伝わって来る様な強さがあった。
私の気持ちの受け皿が変化したのか、それとも今まで何も見えていなかったのか、年相応にやっと周囲に目が向く様になったのか。とにかく1000年の区切りのまさにギリギリの狭間で、何だか宝物を拾ったみたいな気分になってしまった。

 具体例を挙げる事は差し控えるが、まるで上下するシーソーの様に2つの事柄が入れ替わってしまった不思議について、書いてみた。あくまで私が感じた、たかが印象に過ぎない。
何気なく生活し何気なく他人と接触する事で、私達は物凄い量の情報を受け取る。
あえてその一つ一つを私のデタラメな頭の中で散らかし放題してみた結果、淡いオーロラが眼前に出現したかの様に、ぼやーっと導き出されてしまった「カタチ」を瞬間的に感じてしまったのだろう。
デタラメな、でもどこか未来を示唆する不思議なカタチ。             

 長く一つの分野にいるせいか、話が合うとか合わないとか、有効な情報交換とか、そんな事はもうどうでも良い事の様に思える。
本当に必要ならば、自然と身につくものだ。
他人の評価さえ、もはや気にならない。
とにかく自分の心の井戸の底をひたすら浚い続けるだけ。
それに同業者の枠内ではそれぞれが独自のスタイルを保持しているからなのか、産まれたばかりの成長過程にあるアーティストでもない限り、互いに影響し合う事はほとんど無いのかも知れない。
素敵な演奏や楽曲を聴いたからと言って、それが自分の創作の糧となる事は意外に少なく、むしろ美味しいトンカツや、知らない誰かが残した魅力的な筆跡に心奪われ、そのささやかな感動に背中を押されて、自分でもビックリするほど気持ち良く曲が書けたりするものなのだ。

 やたらとセッションを重ねないのも、この周辺の音楽家の特徴だ。
こと演奏に関しては「いびつ」である事を好むへそ曲がりなミュージシャンが多いし、何よりも個人の音楽的欲求は単に演奏に帰結するものでは無い事を、皆がよく理解しているからだろう。

 浮遊するうち何時しか銀河のかたまりの如く寄り集まった人々にはどこか共通点があって、その暗黙のルールから極端に逸脱する変わり種は、ほとんど居ない。
良くも悪くも、外界の温度を正しく認識する皮膚感覚は、どこかズレたものになっている筈だ。
そうした危機感が皆の胸の中にあって、それに対応するべく、曇りの無い視点でこの世の中を積極的に楽しむ姿勢がほぼ同時に整いつつあるとしたら、現象としてはとても面白い「何か」が起きるかも知れない。
例えばゆっくりと上下するシーソーを眺めるうちに、意外な見つけものをする様な。

 ガラス張りの百葉箱的な定位置から私が日々ボンヤリと感じた印象の集積は、案外心楽しく、微笑ましい、未知のカタチをしている。
だからだろうか、身体中どこを探しても微塵も焦りが見当たらない年の瀬というのは、本当に産まれて初めてだ。
西暦2000年の到来は、メンテナンスの終了した世界中のコンピュータを飛び越え、人間の心の奥底にプログラムされた、ある小さな部屋の扉を開くのかも知れない。
その扉の向こう側に佇む、まだ誰も見た事のない景色に思いを馳せながら、ひたすら煤払いに勤しむ。
いつも通りの年末の慌ただしさに追われているのだった。     

(了) -1999.12.31-