第17回 『消しゴム』

 その昔知り合いだった方で、少々変わった癖の持ち主がいる。
一見したところ、これと言っていびつな印象を他者に与える様なタイプの人ではなかったが、彼を長きに渡って知る主人の証言がそれほど偏ったものでないとすれば、随分と不可思議な人物が身近に存在していた事になる。
精神構造が複雑なのか、内面の濁りや屈折が表面に表れにくかったのだろう。自分の心の内側が他人に汲み取られる事を極端に嫌っていたのかも知れない。少しずつ累積した確執や、独特のスタンスにしがみつかなければならなかった本当の理由。他人をコントロールする事にかけてはピカ一の才覚に恵まれている様に見せかけながら、実は本人は困り果てていたのか。
何年もかけて誰も手を触れられない位にまで自分の周りの環境を悪化させてしまってもなお平然と振る舞い、いよいよもってのっぴきならぬ事態になると忽然と姿をくらましてしまったのだ。
どのようなトラブルだったのか、何故音信を絶つ必要があったのか、詳しくは触れないがとにかく色々な場所に火の粉は飛んだようだった。
その人物とあまり関わりが無い私の足元にさえ、ズブズブと燻りながら灰は降って来た。

 たかだか十数年ではあるが、音楽業界をのんびり眺めてきて色んな噂やゴシップを耳にする機会もある。成功者と言われる人々の世界を垣間見ることもあれば、聞きしに勝る転落人生を真横で目撃してしまって「ああ、人の振り見て我が振り直せって事なのね」と柄にもなく神妙な心地になったり、それでも世の基準からすればまだまだ全然世間知らずな私だが「世の中には本当にタマげた人が大勢いるものだ」ぐらいの事は理解しているつもりだ。多少の珍事では動じない図太さだって、いつの間にかコッソリと蓄えてあるのだ。
しかし、この人物にまつわる噂には意味不明で愚かで未来が無くて寒々としているのに、変にカリスマを感じてしまう気持ちの悪さがある。
トラブルの規模も中途半端に中ぐらいで、むしろ無気味。人が何人死んだとか、分かりやすい悲劇の類いでもない。だからと言ってあと何十年経とうと、どうでも良い笑い話に移行する可能性は万に一つも無いだろう。
只々、どんよりな出来事なのだ。
そして今回は、ここまで多くの人をどんよりさせたその人物の、そして私の、ある癖のお話。
問題の寒々としたエピソードについて私は多くを語るべき立場にはないので、ここまで。そのうちどこかでひっそりと誰かが公開する日も来るだろう。

消しゴムを刻む。
ひたすら刻む。
うつむいて、ただ黙々と、机の上を消しゴムの微塵切りで埋めてゆく。
米粒よりも小さな、さながら南国の浜辺に打ち寄せられ細かく砕けた貝殻のかけらの様に白くてコロコロしたものが、その人物のデスク上には常に存在していたのだと云う。
癖というよりは趣味の領域かも知れない。
カッターナイフを扱うのだし、単なる閑つぶしにしては集中力も要る。ただただ黙々と刻むのだ。
はた目には自分がどんな風に映っているのかなんてお構い無し。
伝え聞く分裂気味な気質とともに語り種になっていた、この「消しゴムを刻む」の図。実はまったく同じ癖がかつての私にもあった。
あまり思い出したく無い部分でもあるし、実際適当に記憶を摺り替えてしまっていて、モヤモヤした思い出として残っているだけなのだが、母の口述によれば私は確かに「消しゴム」を刻む女だったのだ。いや、少女だったというべきか。

 緊迫した状況といえる程シビアな現場に身を置く事があまり無いせいか「悩みなんて無いんじゃないか」という顔つきをしている私だが、うろ覚えのその2年間に限っては、眉間が常に薄曇り状態。
『遅刻、忘れ物、目立って多し。小学校中学年にしては随分と深刻な表情をする子供だな。』
大人になった現在の私が、多少の摺り替えはあるにせよ当時の私を客観的に思い出してみると、こうなる。
やたらと遅刻して、時間割り表と照らし合わせながらランドセルに教材を入れているにもかかわらず忘れ物が多い。冴えない顔つきで満員電車に揺られながら登校する・・・・。
あと一歩で間違い無く登校拒否児童になっていたのだろう。しかも授業中には消しゴムを刻んでいたのだ。
父兄参観の折、平気で授業中に消しゴムを刻み続ける我が子の姿に驚いた母が私を問いつめなければ、ひょっとするとお気楽者の濱田理恵は存在しなかったかも知れない。
楽しく暮らす力の源を失ったままの大人になっていたかも知れないのだ、と思うと物凄く怖くなる。

 なにぶんボンヤリとしていたので両親の焦りを克明に思い出す事は出来ないが、「真面目に娘を転校させようと考えていた」母は今でも当時の事が許せないらしく、当事者の私以上に気色ばむのだ。彼女が何十年経っても許せないものとは、その時の私の担任教師で、10年ほど前に教壇から引退した。
3年前、私を特別に可愛がって下さった同学校のある先生の退職パーティーに参列した際、同じく参列者で母の憤怒の元凶でもある前述の元担任教師と20年ぶりに挨拶を交したが、あれほど私を威嚇し、成長の芽を摘まんがばかりに集中攻撃してきた恐るべきベテラン教師は、すでに可愛いおばあちゃんに変身していた。
「ごぶさたしております。」
私が名乗りながら近付くと、とても驚いた様子だったが一瞬怯えたような表情を感じ、何だか気の毒になった。教育者として功績も残し、引退して平和に暮らし、沢山の教え子に慕われているはずの老婦人の怯えた顔。
彼女の苛立ちのアンテナに運悪く引っ掛かってしまっただけなのだ、当時の私が。

 エスカレーター式の学校というものは良くしたもので、10年を超える長い在学期間の中で生徒の立場や能力がゆっくりと変化する事が許される。
たとえ小学校時代のある何年間かは授業中消しゴムばかり削っている様な風変わりな生徒も、高校に進学する頃には自治会に食い込み教師と渡り合ったり出来るのは、クラスメイトの顔ぶれが変わらない事や幼小中高大の一貫教育のため何十年と勤続している教師同士の情報交換によるところが大きい。
たまたま担任となった教師が、おそらくは女性としての毒気を持て余しているところにタイミング良く私という素材が現れ、とにかく若竹を鍋蓋で押さえ付けなければ気が済まなかった・・・と母は解釈している様だし、今から思えばあれは私とその教師の確執ではなく、母と彼女の確執だったのだ。同じ学校に通う妹に累が及ばなかったのは幸いだった。
父も母もその教師から呼び出されているが、別に私は学校のガラスを割った訳でもなければ成績が悪い訳でもない。クラスの友達をいじめて泣かせた憶えも無いし、コーラス部ではソロパートを担当するマイペースなお稽古ごと大好き少女だ。遅刻や忘れ物が多いという理由だけで先ず母が呼ばれ半年後に父が呼ばれ・・。
父ははなっから女性同士の確執が原因していると分かっていた様で慌てもしなかったし、実際とんでも無い出来事ではあったけれど、逆境を耐え抜く基礎体力を養えたと考えれば彼女に感謝の念さえ湧いてくる程だ。
担任が変わってからは本当にのびのびと学校生活を楽しんだし、もしも私が子供を授かり、通学可能な距離範囲に住んでいれば、迷う事なくその学校に我が子を通わせるだろう。
路面電車、お気に入りの制服。

 夏の日のプールサイドの陽炎を見るような、薄ぼんやりとした記憶の片隅に、いびつに心を閉ざしかけた私が消しゴムを刻んでいる。
白く脆いかけらは、みるみる机を埋める。
心の隙間に入り込んだ弱さ。
他人との争いを拒む弱さ。
きっと私の本質に存在するであろう弱さ。
どう思い出してみてもベール一枚向こう側での出来事の様だが、現実に私はその弱さに浸っていたのだ、少なくともその2年間は。
もしも今の私が前向きなエネルギーによって支えられているのなら、それは途方も無くマイナスに引き寄せられる部分を心の根っこに持っているからだ。
浮き彫りになった僅かな自分のマイナス指向を知ってしまったからこそ、やっぱり前を向いて進むしか無いのだろう、と思うのだ。

(了)-2000.4.26-