第10回 『デイジーのこと、その1』

 5年ほど前のことだが、ある女性とイベントを企画したことがある。
私の個人的なライブにシンクタンクとして参加してもらったのが事の始まりだが、コラボレーションの面白味に二人してどっぷりと浸かり、それをきっかけに何度か共同作業を楽しんだ。
とにかく顔の広い女性で行動力に溢れ、どう転んでも上手く行きっこない話をチャッカリまとめてきてしまうのだ。しかも誰一人傷つけることなく。

 茫洋とした思い付きの断片が散らばる沼地からテキパキと実現可能なものだけを掬いあげ、いや、実現不可能なものですら、容赦なく何喰わぬ顔で可能な出来事に作り替えてしまう。
何となく巻き込まれた人々をたちまちその気にさせる才能は完全にプロの水準だったが、なんと彼女は素人だった。イベント屋でもコーディネーターでも、 芸能事務所の凄腕女社長でもない。
しかし腕利きプロデューサーだったことは皆が認める事実だった。

 彼女と私の二人で企画したあるイベントは当初ごく小規模なものだったが、例によって彼女の生み出す亜熱帯性の竜巻きの成せる業か、何やらどんどん話しが膨らんで、出し物も出演者もテーマも決まらない うちから青山一帯のギャラリーが参加する大アートフェスティバルの目玉イベントになってしまったのだ。

 私達に与えられた会場は、その筋では誉れ高い青山スパイラルの、カフェを含む1階ギャラリーのフロア全て。国内外のアート全般にとても詳しそうなキュレーターや、アートフェスティバルの主催者らしき大人物と打ち合わせもせねばならないが、肝心の内容がまだ見事に白紙状態。内心冷や汗ものだったが、かねてより御一緒したかったアーティストの方々をお迎えしたいという私の要望を腕利きプロデューサーの彼女は叶えてくれたのだ。

 そのあまりに多彩な活動から形態名称を特定し難いが、ここでは仮にパフォーマンス集団としておこう、「パパ・タラフマラ」の中心的存在である小川摩利子さん。
所かまわず火花を飛ばす過激な演奏が消防法に抵触する等の理由から某ライブハウス出入り禁止となった、でも実はとても優しく料理上手で知的なパーカッショニスト、スティーブ衛藤さん。
そして当時、彼女がアーティストとして心底惚れ込んでいた新進造形作家の松尾宇人くん。なぜ彼だけが「くん」呼ばわりかというと、答えは簡単、私の大学での後輩なのだった。
そして全音楽を担当する先輩の私。

 以上の役者達が集まって何かをしてみようではないか、という段階までようやく漕ぎ着けたものの、今一つ道が開けてこない。つまりは音楽とオブジェとパフォーマンスの融合みたいな事なのだが、核となるテーマが未定のまま日取りと会場だけが決定しているのだ。

 そうこうするうち、松尾宇人くんがある方向性を彼女と私に提示してきた。
それは無造作だがとても美しく描かれた書棚のスケッチだった。
巨大な本棚はガラスで作られているらしく、そのもの自体が発光しているかのようだった。
彼の中に忽然と誕生したそのオブジェは、更に様々なイメージを内包していた。 まずその巨大本棚は「マイ・フェア・レディ」のディケンズ博士の書斎のイメージから出発し、途中星屑のように細かなイメージの残骸をまき散らしながら映画「2001年宇宙の旅」に見る年老いたボーマン船長が食事をとっていた、あの不思議な白光色の部屋に辿り着く。

彼の語る一見偏執とも思えるこのイメージの旅は、私達のどこか深い部分に確かに共鳴した。
お互いを共鳴させる共通の言葉を確認した私達3人は、とにかく物凄い勢いでそれぞれの作業を完成させてしまう。

小川摩利子さんとスティーブ衛藤さんには、ほぼ全体像が整った段階で参加してもらうことにし、私は私で勝手に曲をどんどん書き下ろしていった。

そこで私が使いたかったモチーフが、「2001年宇宙の旅」の中でコンピューターHAL9000通称「HAL」が壊れる寸前に恐ろしくとろけた口調で歌う「デイジー、デイジー」という耳馴染みの無い歌。
映画に詳しい友人に聞いても、サントラ盤を買っても、何も情報が得られず途方に暮れると同時にとても奇妙な感じがしたものだ。ストーリーからしてオリジナルの曲とは考えにくいし、ならば何故こんな誰も知らない曲を敢えてキューブリック監督は使用したのだろう。

 しかし私達にそれを追求する時間は無かった。何しろ公演日はすぐそこに迫っているのだ。
今の様にインターネットが普及していれば自力で解明することも或いは可能だっただろう。
しかしそれもままならず、ならば「デイジー」という曲を新たに作ってしまえば良いのだとばかりに勢いにまかせた私作「デイジー」が誕生する。
しかもその直前に南米ボリビアで完璧な皆既日食を目撃した経験も手伝って、個人的に思い入れの深い作品に仕上がった。

 「デイジー」はイベントのラストを飾った。
イベントは、結果的には成功したのだと思う。小川摩利子さんは冴え渡る存在感でパパ・タラフマラの時以上に観客を魅了したかもしれないし、スティーブ衛藤さんは火花こそ出なかったが独特の演奏スタイルもさることながら素晴しい順応性を以て私達を熱く支えてくれた。いつもはピアノを弾いて歌っているだけの私もピアニカ片手に客席を走り回ったし、満足満足。

 友情出演の伊藤ヨタロウ氏をはじめ予定になかった出演者その他大勢の方々の協力に助けられ、怪我人も無く(これは重要)、アートフェスティバルや会場のスタッフにも喜んでいただき万事目出たしな・・・とまでは行かないが、かなり面白いアプローチが出来たのではないかと、今でも思っている。
一夜限りだったが沢山の方に観ていただき、普段のライブでは得ることの出来ない刺激と充足感があった。

  1998年の暮れに2枚目のソロアルバム「Darie」をリリースしたが、当初この「デイジー」を収録するつもりはまるで無かった。録音に入る数日前、バイオスフィアの山浦社長やデザイナーさんとジャケットの打ち合わせをしていた時、件の松尾くんの作品の中でジャケットの撮影をしたいものだ、と急に思い付いた。丁度その頃、彼は自宅の一室を完全に独立した一個の作品に見立てて展示していた最中だったのだ。

 彼の家を訪ねると、ある一部屋が真っ白に塗りつぶされ、その中央に同じく真っ白い木製の造形物、その無数の枠組みの規則正しい一つ一つに豆電球が灯っている。その空間内を照らす光源は小さい小さい豆電球達だけだ。弱々しい、ともすれば寿命の尽きかけている豆電球もある。暖かくどこか懐かしい豆電球の灯り以外は、本当にすべて真っ白に塗りつぶされているのだ。天井も、畳も、壁も、床の間も。
彼はその作品を「ハッピーハウス」と名付けていた。

 来訪者は必ずその光のインスタレーションの真ん中に座って、松尾くんのカメラの被写体にならなければならない。別の部屋の壁には、「ハッピーハウス」を訪れた人々の写真が貼りつけてある。以前 来訪した際の私の写真もたくさんのポートレート(というのだろうか?この場合)に 混じって、しかしすぐに見つける事ができた。

 アルバムを録音する事になった報告と、ジャケット撮影に作品をお借りしたい旨を申し出た。
心良くOKしてくれた上にカメラマンまで買って出てくれたのには驚いたが、「ハッピーハウス」はとてもデリケートな光源によって成立している作品だ。作者である松尾くん以外に、あの場所での撮影に最も適した人間はいなかっただろう。
再び彼の作品に触れるうち、かつて不可解な動機によって作られた、あの「デイジー」を録音すべき心境に至ったのだ。ごく自然に。

 そして「デイジー」には続きがある。 次回に詳しく書こうと思う。    

(了) -1999.11.3-