全力で立ち向かう、という表現がある。
普段の会話で使われる事はまず無いかも知れないが、テレビのニュースや政治家の街頭演説などでは案外ちょくちょく登場している。
ムードとしては「誠意」に満ちた「嘘いつわりの無い」「一途」で「一生懸命」な良い感じ。
他に目移りしたり、余計な道草を喰うなどもっての他で、馬鹿正直に目的物への最短距離を一直線に猛進する不器用さ、あるいは1ミリずつではあっても確実に歩を進める手堅さを感じる。
無骨な男達の汗、団結心、改革、犠牲、名誉、汚名返上、最善、たゆまぬ努力・・・。
何となく数珠つなぎにポコポコ浮かんでくるのは社会的な立場や、男性的なイメージ。群れ、集団、組織。
個人の意志ではなく、全員の気合いがメラメラと燃えながら互いの闘志を確認しつつ高めあっている感じだ。
例文。
*車では前輪駆動、音楽ではフォルテッシモ、全力で立ち向かう、という意味を込めて命名しました。
*新春社員研修大会開催・厳しい経済情勢の中、社員一同「全力」で立ち向かう決意を新たにしました。
など。
「全力で」と云うからには、目的の達成と引き換えに持てるエネルギーを使い果たしてしまわなければ嘘になる。抜け殻になる覚悟で立ち向かうのだから、これはもの凄く大変な事だ。
最近、モノを作る人の書いた文章を読んで、ひとつの創作を終えると本当に身体が消耗して「抜け殻」になってしまう、という様な意味の内容に全然ピンと来なかった自分を発見した。
その書き手が云うところによると、モノを作る時には無意識に体力や五感を酷使してしまうのだそうだ。結果「抜け殻」と化し、しばらくは何も出来ない程なのだという。
「?」
じっと立ち止まり、しばし記憶の海に溺れてみる。
しかしどんなに私の過去を検索してみても該当する項目が見当たらない。「抜け殻」になるほど力を尽くした事がないというのか、いやしかしそんな筈は・・。
自分が目指している高みにあと一歩で辿り着けるというのに、どうしようもない事情で諦めざるを得ない時。大量のストレスを抱え込む状況。
じっとしていると心の底から怒りや嘆きがもの凄い勢いで溢れ出て、完全に自制心を失いかけた経験がある。
どっちつかずの綱渡り的な状態がダラダラと続き、頭のどこかを麻痺させなければまともな精神状態でいられなくなっていたところに、決定的な大打撃を受け、「あ、壊れる」と感じた。
脳の悲鳴を聞く。
一瞬にして白髪になるかとも思えるブッ飛びだった。指一つ触れずにコップを割ること位は出来たかも知れない。
そのあとで、「ぶらん」とした情けない抜け殻状態。
────みたいな悲惨なケースだったらあるんだけど・・・・。
例えば私は音楽家だから、丹精込めて録音したアルバムが完成した喜びと引き換えに快い脱力感に包まれて・・という様な事なのだろう。う〜ん、経験してみたい。
たった2枚のアルバムしか世に送り出していないせいか、今ひとつ「抜け殻」になるほど力を尽くした実感が無い。根が熱血に出来ていて、どんな仕事でも損得抜きでベストは尽くすけれども、持てる力の全てを使い果たしてうっとりと抜け殻になるなんて考えられない。
そんなドラマチックな展開、一度でいいからこの身に起きて欲しいものだ。
集中して作れば作る程、創作の欲求は増す。
色つきの水を吸い上げた植物の葉脈がゆっくり鮮やかに浮き出てくるのに似ている。
発想や方法論は枝別れしてどんどん形を変える。
いたずらに試してみたくなる事、ひょんな間違いから生まれた文節の美しさ、味覚が驚くほど鋭くなる事もある。リラックスした集中状態は、色々な事を可能にする。永久運動とも思える、緊張と弛緩の繰り返し。
ここに「消耗」が生まれる隙間を私には見つけられない。
超人的スケジュールによって寝不足だったり、どうしても親の仇にしか思えないほど反りの合わない人間との共同作業だったり、スタミナやストレスの問題であれば何となく話しは判る。勿論ここで云う「消耗」には、肉体的疲労も含まれているのだろう。しかしもっと近いニュアンスとしては、「オーラが薄らぐ」とか「魂の疲れ」みたいな表現が多分にぴったりくる。
しかしこれを自覚できたとしたら、そんな恐ろしい事はない。「消耗」の自覚経験が無い私はシアワセ者だ、きっと。
ただ単に私が無神経なのか、肉体的にタフなのか。まだまだ一皮も二皮も剥けていない証しなのか。
それとも、マーキュリーのお陰なのか。
マーキュリーとは私の実家で飼っていたペットの名だ。
ニワトリのマーキュリーは家族全員に惜しまれながら20年前にこの世を去った。私はボーイフレンドの家でマーキュリーの訃報を聞いたが、悲しみに打ちひしがれメソメソと泣いている私に慰めの言葉をかけながら、彼はとても複雑な心境だったに違い無い。決して口にはしなかったが心の中では、
「鶏って、そんなに可愛いかったっけ・・?」
と自問自答していた事だろう。この交際が長くは続かなかったのは言うまでも無い。
弟が父にせがんで買ってもらった祭りのヒヨコは6羽ほどいたが、揃いも揃ってアッと言う間に成鶏。お陰で我が家の庭は躾もへったくれも無い鶏達に荒らされ放題になってしまった。
鳥族は所構わずフンをする。もともと飼っていたヨークシャーテリアを集団でいじめにかかる。飛べもしないのに翼をバタつかせ嬌声を発しながら庭中を走りまわる。粗悪で凶暴な集団だったが、ただ1羽、毛色の違うニワトリがいた。
茶色い羽。おっとりと優雅な歩きっぷり。季節の草花を静かに眺めている様子など、さながら一句ひねってみようかという優し気な俳人のようだった。
さんざん大暴れした鶏達は近所の小学校に貰われて行ったが、茶色いニワトリだけは我が家のペットとして庭で暮らす事になった。弟は彼女に「マーキュリー」と名前をつけた。
マーキュリーは毎朝1個タマゴを産む。
放し飼いのニワトリが産む小振りで美味な、ぷるんと黄味の盛り上がった滋養満点の生タマゴは父の朝食に添えられるきまりだったが、マーキュリーは最初から最後まで弟のペットだった。
彼女は弟の言う事を理解している様に見えたし、弟を通して私達家族を慕っていたのだろう。
庭に出て雑草を摘む母の真横にやって来ては「コッコッコッ」と穏やかな声で何かを喋りかけ、母が天気の事など話すとまるで相槌を打つかの様に「コッコッコッ」と頷きながら立ち去るのだという。
何だか私の拙い文章からはどうかするとボケ老人のイメージが浮かばなくも無いが、それはそれは毅然とした心優しいニワトリだったのだ。
決して慌てない。ナンバーワンペットの座を横取りされてなるものかと必死で吠えつくヨークシャーテリアのバロンに対しても、決して動ぜず。
あまりに執拗な攻撃には鋭いくちばしで鼻先を「コッ!」。その一撃以来、マーキュリーは完全にバロンより優位に立つ。
不思議な序列を成していた我が家の生態系。
人と犬とニワトリの心の通い合い。
登場する生き物といい、ニワトリらしからぬ逸話といい、どこか佐々木倫子氏の『動物のお医者さん』を思い起こさせる。
養鶏場育ちではない健康な鶏は15年ほど生きるのだそうだ。マーキュリーはそこまで長寿ではなかった。正確には思い出せないが、4〜5年は生きていたと思う。もとから弱い体質だったのかも知れない、とにかく普段の動作がゆっくりだったのだ。
弟はマーキュリーを火葬にするのだと頑として譲らなかった。10歳程度の子供に無茶はさせられないが、泣きながら訴えるので母も妹も最後は折れて、庭の片隅に弟がこしらえたレンガの火葬場でマーキュリーが荼毘に付されるのを静かに見守った。
もちろん火葬など初めての事だったのだろう。庭からもうもうと立ちのぼる煙りやジュージューパチパチと脂のはぜる快い音、少なく見積もっても半径10メートル圏内には立ちこめただろう食欲をそそる香り・・・。
御近所から「バーベキューですか?」と尋ねられ答えに窮した母も気の毒だが、弟は暫く悲しみから立ち直れなかった様だ。良い具合に焼けたニワトリの丸焼きはアルミホイルに包んで庭先にひっそりと埋めたのだった・・。
漂うように生きて、我が家の庭を一歩も出る事なく、燃えるような激しい一生ではなかったかも知れないけれど、先輩のペットをしっかり配下に従えてしまうほど何者も抗えない強さを秘めていたマーキュリー。
何も犠牲にせず、苦しさを引き受けず、するべき時にするべき事をする。あんなにも自然に、優雅に、一生をまっとうする事が出来たら。
もし彼女が生きていれば、精一杯のなけなしの社会性を総動員させてどうにか日々を生き抜く私を何とするだろう。あの尖ったくちばしで制裁を加えるだろうか。それとも優しいねぎらいのさえずりを聞かせてくれるのか。
長い年月の間にたくさんの守り神達と暮らしてきたがどういう訳か最近ふと思い出すのは、初夏の陽の光に可笑しくなる程くっきりと、くらくらする程のんびり自分勝手、貴婦人の様なマーキュリーの後ろ姿なのだ。
(了)-2000.5.12-
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