第15回 『劇場』

 「劇場」の似合う人がいる。
誰のものでもあって、誰のものでも無い、不思議な場所。
虚と実の混ざりあう非日常性。
複雑な構造、様々な深度をもつ闇、吸い込まれそうな高い天井。
どのように制作するのか見当もつかないほど巨大な緞帳に見とれていると、ついうっかり足許を掬われて、無様にも毛羽立った絨毯につまずいてしまう。

だから、くれぐれも注意深い足取りで優雅に、客席の階段は降りなければならない。
そして無事席に辿り着いたならば、細心のさり気なさを装いながら周りをそっと窺い見るのだ。
派手に振り向いたりキョロキョロと無遠慮に人探しをするなど、謹みに欠ける所作は相応しく無い。
「ななめ後方にいる女性がどうも知人に似ている気がしてならない」と、もう気になって気になって、何が何でも確かめなくてはこれから始まる演奏会どころではたとえ無かったとしても、無気味にも グンニャリと首を回してあからさまに振返り、ななめ後方にジロジロと視線を送る事だけは避けたいものだ。

どうしてもと言うのなら、上着をたたむ際に覚え知らず肘が当たってしまった隣席のお客に 「どうもすみません」と詫びるその瞬間、誰の目にも止まらぬ素早さでササッと肩ごしに 問題の女性を盗み見るのだ。
何もそこまでしなくても、とお思いの方もいるだろう。
しかしどんなに気を付けていても毎回、私は毛羽立った絨毯につまずいてしまうし、知り合いを見つけると周囲を顧みず満面の笑顔で思いきり手を振ったりしてしまうのだ。

 他にも、深夜のタクシーで運転手さんと道順の事で喧嘩したり、どんなに気を付けていても必ずトマトソースやカレーうどんの汁が2〜3滴ブラウスに飛び散ってしまう等、「どんなに気を付けていても」シリーズを挙げてゆくとキリが無い。
この手のタイプの人間は私を含め「いつもそうなのだから気を付けなければいけない」という鉄則を心掛けながら実はどこかで、不作法な自分というものをとても愛してしまっているのだろう。
"反省"や"改心"という言葉の意味を重々理解しながらも全く行動に反映されないのは、きっとそのためだ。
そういう事にしておかなければ、私という人間はあまりに学習能力の乏しい生き物だという事になってしまうではないか・・・と、やや荒みがちになるほど最近「不作法」がますます板に付いて来てしまい、我ながら恐ろしい。

 事情をよく呑み込めていない相手に当たり障りの無い丁寧な説明をしようと思っていても、ついついこの「不作法」が首をもたげ、丁寧ついでに知らない方がいっそ幸せとも言える現状をも細かく説明する羽目になり、結果相手を不必要に落胆させる事になったりする。
明らかに自分の意見が俯瞰の見地にあると判断できる場合でも、相手に逃げ道を与えながら話をすすめる余裕は必要だ。ましてや追い詰めるなど、話し合いの作法に適わない行為は、それまであちこちに隠されていた幾重もの危険な断層を悪戯に晒すだけだ。
自分の「不作法」が、相手の見たくも聞きたくも無い「不作法」を引き出してしまう。 トマトソースやカレーうどんのシミ、劇場ロビーの絨毯につまずくだけが、「不作法」では無いのだ。

 異空間ともいえる大劇場のロビーのそこかしこで、様々な囁きが零れては消え、零れては消え、次第にあふれ床を這い、泡粒みたく蒸発する人々の溜息の間を縫うようにして大量の空間内に放たれる。
その膨大な言葉の成れの果てである「気」の数々は劇場中の壁という壁、天井という天井に、無数のつららとなって重なり合い、様々な人間の心の鋳型とも言うべき痕跡を形作る。
大勢の人間達の緊張や理想や昂りや驕りや哀しみや歓喜その他あらゆる感情が、鍾乳洞の石灰岩のごとく、一日一日ほんの少しずつだが目に見えない複雑な装飾をほどこしてゆくのだ。
だからだろうか、誰もが足を踏み入れる事が可能な筈なのに、どこか人を拒む気高さが漂う。
そんな「劇場」の似合う人がいる。

 泳ぐように存在しつつも、濃密な空気に決して押し潰されず自分の感じた事だけを信じる強さを 表すような横顔。
まっすぐな背筋から天井に向かってスウッと風が抜けるような麗人。
たまに見かける事がある。
こういう人は顔が前だけを向いて歩いている様でも、ほぼ360度内での出来事がちゃんと見えているのだろう。
ロビーにたむろしている人々と声を掛け合っていないところを見ると、劇場関係者という訳でも無く、普通にチケットを買ってその劇場に来ているごく普通の観客らしい。
どんな声をしているのか興味をそそられて、パンフレット売り場に向かうその人物の歩みに合わせてなるべく自然に近付こうとするのだが、不思議なことに思ったよりも早足で追いつけず、いつのまにか姿を見失ってしまう。
茫然とするうち、また例のごとく毛羽立った絨毯につまずいてしまうという訳だ。
これではまるで間の抜けたストーカーではないか、と多少自分にガッカリしながらも、稀な麗人を目撃したことですっかり嬉しくなってしまうのには我ながら呆れてしまう。

 それにしても、ここまで私が躍起になってその人物に注目しているというのに、どうも周りの人達にはその存在がそれほど魅力的な人物として写ってはいないらしい。
皆それぞれの会話に忙しく、目の前をゆるやかな風のように通り過ぎるその横顔に呆けた表情で見とれる事も 無ければ、誰も私のようにヒタヒタと忍び足で追い掛けている様子も無いのだ。
ひょっとするとそんな人物は初めから存在しなかったのかも知れないと、一瞬狐につままれた気分にさせられて一気に体感温度が4度ばかり下がりもするが、まさに「劇場」とはそういう場所なのだろう。

 小さい頃から「どんな人になりたいの?」と聞かれると一つの答えでは間に合わない欲張りな子供だったが、数ある「こんな人」の中で「劇場の似合う人」はダントツ上位だったと思う。

 幼い私の憧れや恐怖心をかき立てた、巨大な劇場に敷き詰められた赤い絨毯と麗人の記憶は、少しも色褪せる ことなくむしろ鮮明に、私の心のどこか隅っこで古びたラジオの様に不可解な信号を発信し続けている。
音楽のようでもあり暗号のようでもあるそのサインが幽かに鳴り響いている限り、当分私は幻かも知れない劇場の麗人に魅せられるのだろう。

 しかし当時の「なりたい人」には、「劇場の似合う人」に並び「サザエさん」もほぼレギュラーでダントツ上位に食い込んでいた訳で、私の筋金入りの「不作法」にもそれなりの伏線があったと言える。
そしてどちらの「なりたい人」にも私は未だ、成っていない。
まだまだ成熟の余地が残されているという事か。
だとすれば目標とする「不作法」は、こんな生温いものでは無いのだろう。
新年早々「劇場の似合う人」と「サザエさん」。
あまりにも対極に鎮座する二つのイメージの彼岸と此岸をうっとり行きつ戻りつ、より一層身も心も引き締まる思いがするのであった。            

(了) -2000.1.25-