第23回 『必殺いい加減野郎』

 伝えようとすればするほど、無口になる。
何かに感じ入って、とにかくそれを誰かに知らせたい時。頭の中はノリノリだが、それとはまったく逆に外見上はひっそりと大人しくなる。
結果、無口になる。
もともと小さい頃から自分の内側の状態を他人に細かく報告するタイプではなかったが、この何年かで私の身体はその傾向が徐々に強まっているようだ。
何故だろう。一生懸命伝えようとすることで、伝わるはずだった幾つかの要素が失われてしまうような気がするからだろうか。

そもそも歌声にしろ昔はとにかく声が大きくて、何人かで一緒に歌うような時でも私だけ1メートルほどマイクから離れたポジションに立たされ、どうかすると更に後ろ向きで歌わされていたほどパワフルな声だったのだが、ここ数年どんどん小さな声で歌うようになり、今ではほんとに自分の鼻孔に微かに響くか響かないかという頼り無ーい発声法を好んで用いている。
個人的なつぶやきの域を出ない歌。私の声本来のキャラクターに合っているいないは別として、心情的にはかなりしっくりきているのだが、聴衆に届くエネルギー値としてはどうなのか・・・、疑問の残るところではあるが、まずは自分の満足度が何より重要。マイクを使って拡声し、私の小さな歌声に耳をすまして聴いてくれる人々の暖かい理解に甘える事ができれば、「つぶやきのごとく」という一見消極的な伝達方法は音楽のエリアでは辛うじて成立させられるかも知れない。
しかし日常生活で他者に何かを伝えようとする場合、とにもかくにも言葉が重要で、その言葉が足りない場合は表情や仕種で補わなくてはならない。

事務的な伝達は別として、心の奥底での出来事を言葉に変換する行為に、どちらかというと私は躊躇うタイプの人間だと思う。自分が何かに反応している事を態度であらわすのに、少なからず逡巡する。逡巡したのち、これはきちんと反応している事が相手に伝わった方が良いだろうと判断した場合、やっとこさその感情をあらわす言葉をごく控えめに口にしてみたりするのだ。そしてその必要も無いと思えば、むろん黙っている。
何もそんな面倒臭い事しなくてもアナタ、人間なら嬉しきゃ自然に笑顔になるし焦れば誰だって切羽詰まった顔になるでしょ、ナニ構えてるんだか・・・と思う人もいるかも知れない。いやしかし、誰もが素直に感情を他者に向かって晒すわけではないだろう。少なくとも私は、仮に自分がどんなに大ピンチの憂き目にあって誰かれ構わずしがみついて助けを乞いたい時や弱音のひとつでも吐かなければ気が変になるような状況であっても、おそらく顔つきが変わる事は無い。逆に幸福で幸福で天にも昇る心地だったとしても、多分同じだと思う。決して大袈裟な表現ではなく、頭の中で考えている事が表情にあらわれにくいのだ。精神的に絶好調の時も絶不調の時も、よほど親しい人間でなければ外見からはそれを見定められないだろう。
何かと他人を判定したがる知り合いに、
「なんか嬉しいことでもあったんじゃない?」
なんて事を言われても、二日酔いだったりお腹を壊していたり、体調的にはまったく今ひとつの時だったりするのだが、「ほら。当たったでしょっ」と確信たっぷりの相手の顔を見ていると否定するのも気の毒になる。そんなに身体の中と外が噛み合っていないのか、私は。
もちろんテレビで『全国旨いラーメン店特集!徹底取材!ぜんぶ見せます!』みたいな番組を見れば間髪入れずその場でお腹が「グ〜」と鳴ってしまう、実にシンプルで分かりやすい神経の人間ではあるのだが、こと喜怒哀楽となると別の機能がはたらいているのか、放っておくとほんとに何を考えているのかさっぱりわからない「変なヒト」すれすれの時がある。
このちょっと困った傾向は、日常の友達同士のやりとりでもたまに顔を出す。賛成なのか反対なのか、楽しいのかつまらないのか、こちらの意志が汲み取れずにとまどう相手の顔を見て、「おっといけない」と慌てて意思表示する私・・・。
友達関係であればちょっとした誤解で済むが、お仕事関係となるとそうもいかない。
「やる気あるのか、いったい・・・」
「一向に食い込んでくる気配が無い。冷やかしや暇つぶしで仕事してるんじゃなかろうか。」
「結構おっきい仕事だってこと、自覚してんのか、この子・・・」
と、かなり馴染みが薄く私のお仕事ペースを御存知でない仕事先の方をイラつかせる事もたまにある。いや、イラつかれても私も困る。依頼されてモノを作るにあたっては、特にこちらから何も語るべき事柄が無いのだ。私に出来ることを私らしくベストを尽くすだけ。これといって質問もしなければ自分をアピールもせず周辺のお仕事事情を積極的に探ろうともしない脂っ気の無い私の姿勢が、彼等には不審に映るのかも知れない。
彼等の苛立ちを推測するに、
「なんかずっと余裕でニコニコしてるけど、ほんとにわかってんの?」
という事なのだろう。見かけに似合わずキャリアは長いので飲み込みはまあまあ良い方だし、ある程度作業を進めて疑問が生じてくれば後日問い合わせるだけのことなのだが。

まあしかし先方が多少不安になるのも、わからないではない。当の本人は大体においては、通常何も面倒くさい出来事がなければ慢性的に気分が乗っていて、ほぼいつでも楽しい状態なのだ。
「おはようございまーす、あはー。」
やはりこのノリでは警戒されても仕方が無かろう。
ビジネスの現場において、人間的に交流の浅い間柄では、わかりやすく、ちょっとしつこいかなという位に己をカテゴライズしてアピールしなければ、表面的な信頼を得られない事がしばしばあるようだ。そんな局面に遭遇すると、なんだか複雑で不思議な気分になってしまう。なぜみんなそんなに自分の事を他人に話したがるのか、私にはよくよく謎なのだ。
取りあえずはニコニコしながら黙って見守るしかない。

自分というヒトを理解して欲しいという欲求が、私には希薄なのだろう。
どんなにプライベートな関係であっても。
今何を感じ、何が好きで、何が自分の心を突き動かすのか、何が悩みとして重くのしかかっているのか、誰にも、家族にすら喋りたいと思えないのは、他人に対して淡白だろうか。冷淡だろうか。
おそらく基本的にはいつも、
「ンなこと、どうでもいいじゃない、別に。」
なのであろう。どこかにとてつもなく筋金入りのいい加減野郎な部分があるのだ。
時間を守らないとか金銭感覚に締まりがないなどの「たしなみ」に関するいい加減さでは無く、私というヒトを全て捨ててしまってもかまわないという、無責任さ。土台からスパーンと切り離されても平気という、一種の無神経さが脈々と存在する。 
そしてこの「いい加減野郎」な心境にシフトが入りさえすれば結構どんな境遇でも快適に過ごせるに違いないと思える自分がいるからこそ毎日が楽になるという、ヘンテコリンな図式が確実にある。
そのせいなのか、自分を見つめる姿勢もどこか怠惰だ。ベッドに腹這いに寝っ転がって足首をブラブラさせながらリモコン片手に頬杖ついてのんびりテレビでも眺めているかのように、自分の感情のデコボコを他人事のようにただ見ていると感じる時がたまにある。

決定的にいい加減で無作法なエリア。その存在によって守られ、決して傷つかない、タフな私がいる。
自慢じゃないが、私の身体の中にどっしりと腰をすえているこの「いい加減野郎」エリアこそ、まさに私の宝物とも言えるのだ。

なぜこんな事を書く気になったのか。
最近プライベートな出来事で、痛いまでに「自分」を伝えようとする人々に出会った。それぞれの動機や背景が異なることから、その人々が伝えようとする思いや行為は様々だが、彼女達を突き動かす欲求は一様に「自分を理解して欲しい」のただ一点に集約されているように思う。
平穏な家庭の中でのごくありふれたエピソード、御主人との会話、身体の変調、心の動揺、日々の生活の喜び、友人との断絶、ペットの死、己の老化への不安。
誰の生活にも当たり前にあふれている、生きていれば必ず通過しなければならない節目や、どこにでも起こり得るちょっとしたハプニングが、その人々にはとてつもなく重い、背負いきれない事件として迫ってくるようだ。
目の前で起きている現実をうまく咀嚼でない。過ぎ去った過去を過去として認識したくないのかも知れない。無数に連続する「今」を透かして見える「ワタシ」をとにかく誰かに聞かせてとことんすべてを晒そうとする。
その人たちにとって、他人に「理解される」とは一体どんな事なのだろう。心の中の触れて欲しい部分に触れられることなのか。しかし他人の皮膚を破り心の中に分け入ってその中身をさわるなどという大仕事をやってのけるには、おそらく煮え立つ鍋に手を突っ込むに近い覚悟と誠意が必要だ。
触れるものが言葉であっても記憶の一部であっても生身の身体のどこかであっても、心のある部分を「さわられている」状態が永久に持続しない限り、彼女達にとって「私は理解されている」という実感にはいつまでたっても辿り着けないのかも知れない。
空想とねつ造によって作り上げられた大海原をひたすら彷徨う小舟の様な、もろく危ういココロを抱いたまま。

骨の髄までいい加減野郎な私は、彼女達の複雑な思いに同調することなど出来ないが、不可能な状況をどうしようもなく渇望してしまう不幸せについて、考える事は出来る。
少しずつ膨らみを増していく月の姿を観察して楽しむように、私自身の心の中身や感情の稜線を眺めてみる。そして誰かのココロについて考えてみる。見知らぬ景色のひろがる、不可思議な世界の事を。
どうしようもなくいい加減で無口な、私の心と身体で。

(了)-2001.11.29-