第21回 『無感動な私』

 ここ何日か、とにかく何を見ても聞いても感動というものが薄い。
批判的になっているというわけでもなく、底意地が悪くなっているわけでもなく、ただつまらない。細部にわたって何一つ聞き逃してなるものか、視界に捕らえたすべてを網膜に焼きつけるのだ、と懸命に外界に向かって触手をのばし情報を吸収しようとするも、どれもこれもピンと来ないものばかり。
だからと言って、ガッカリしているわけではない。
世の中がとても平坦なモノに感じられて、あっさりとした時間があまりに規則正しくサクサクと流れるものだから、鏡の中の私はどちらかと言えば薄味な顔つきになっている。
だからと言って、生物レベルで無味乾燥なわけではけっしてない。
毎回楽しみにしている空耳効果に端を発した深夜のバラエティー番組もなんだかノリが今一つに思えて、「what can I say?」が「起きなさい」に聞こえたからと言ってそれがどうしたとぼんやり思うけれど、けっして私は怒っているわけではないのだ。
電話の対応もいつになく緩やかで、家族の多い我が家に電話をかけてきて、名前を名乗らない上にいきなり「いらっしゃいますかあ?」って、一体誰と話したいのかさっぱり分からない受話器の向う側のちょっと困った珍客にも、それほどイライラしない。

心がささくれ立ってもいず、世の中に失望してもいず、脂が適度にのってはいるものの、怒りやイライラとも無縁。つまり感情の振幅が驚くほど小さくなっているようだ。こんな事でこれから先の人生を面白可笑しく生きて行けるのかと少し心配になるくらい、ニュートラルさ加減が度を超している。
もう、ちょっとやそっとのモノやコトでは心拍数が上がりも下がりもしない。どっしりと腰は据わり、ずぶとい神経の束が頭の中にとぐろを捲いている感じ。ああ、こんな状態でコンサートを開けばさぞかし貫禄のステージングが実現するのだろうなあと、つい二週間ほど前の緊張のライブを思い出し残念に思わずにはいられないその反面、あまりに分不相応に「ドス」が利きすぎていてもそれはそれでつまらないかも知れない・・とも思うのだ。
アクシデントやハプニングを楽しんだり。予期せぬ感情の昂りに驚いては自分で自分に感動してみたり。数えきれないその場限りの魔法の瞬間を私が感謝の気持ちで受けとめられるのは、自分自身の未熟さのおかげだ。我が身の不出来を噛みしめながらもワクワクするような緊張や偶然を許される限り天真爛漫に纏っていたい。

では私は今なんのために「ドス」が利いているのか。
激しい心の振幅のあとに必ずやって来る状態。
熱波がゆっくりと地表を舐め通り過ぎたあとの、不思議なカタチした残骸の転がる、静かな静かな景色に似たこの状態。
こんな、何も生み出しようの無い景色を眺めなければ、私は作る事が出来ないのだ、多分。
冷めて、褪めて、醒めて、ようやく何かを作る事が出来る。
少しでも熱を帯びていたり、幻に浮かされていたり、何か自分以外のモノを愛しすぎた状態はそれだけですでに心が充たされているので、自分にとっての新しい何かを生み出す必要は無いのだろう。「新しい何か」はいつも押し出されるように勝手に産まれ、勝手に成長し、知らないうちに作者を追い越すが、作者を癒しもする。新しい未知の「貌」をしているはずなのに、変に懐かしかったりする。
自分の中から生まれたはずなのに、どこか遠い国の血のつながらない親戚みたいによそよそしくて、でもどこか懐かしい。そんな出会いはいつも、心が凪いでいて、何でもない、どうという事のない、特別じゃない、平凡でありふれた、そしてちょっぴりドスの利いた時にやって来る。

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以前、まだ十代だった頃、恋人の運転する車の中で口論となり、激昂のあげくひとり車を降りたついでにサイドミラーをへし折り、ぜんぜん見知らぬ土地から電車を乗り継いで家まで帰った事がある。
ミラーをへし折られた車の持ち主はシートに座ったまま、ただ呆然と私が去っていくのを見ていた。
その人物との恋愛期間中、とにかく色んな物が壊れた。正しくは、私が壊した。
あらゆる物が割られたり、溶かされたり、燃やされたりして失われたが、許されれば許されっぱなしで、反省もせず。いつのまにか私は激情や涙に完全に支配され、心の中はとんでもない状態だったけれども、それはそれで物凄い充実とも言える。怪物みたいなものが自分の中で暴れている感覚を今から思えば半ば楽しんでいたのだろう、なんて書くとやっぱり他人事のようで釈然としない。
外界と自分との距離を完全に見失ってしまう程のめり込んでいたし、楽しむというよりは、まだまだ幼かった私には少々ヘビーな高純度の集中状態から、非力ゆえに抜け出せずにいただけだ。
当然ながらあまり時を待たずして悲惨な別れを経験するが、おそらく意識を持って何かを「作る」姿勢に目覚めたのは、それから後の事だ。持ち前の能力や創作欲だけでダラダラと何かを作っていたそれまでとは、私の頭の中の環境も少しずつ変化していったようだ。

以後、恋愛に限らず似たようなドタバタを繰り返しながら現在に至るが、ドタバタの渦中に身を置いている間はとにかく何を作ってもダメで、狭量になっている思考回路が精神状態をますます支離滅裂なものにしてしまう。
ほとばしる感情に翻弄され感動の金縛りに浸っている時、私の場合に限れば、これほど作り手として無能な状態はない。
もちろん一定のクオリティーを維持しつつ作業する「お仕事」の場合は別で、それらの多くは私だけでなく、他にも業種の異なる複数のクリエーターが関わっている事がほとんどだ。そこではプロジェクトの一部として音楽や言葉を組み立てていくのが私の役割。有能な人々に支えられ、アイディアを出し合いながら冷静にビジョンを構築してゆく。音楽家としての技術を磨く訓練の場所であるし、あくまでビジネスという事もあって、どこか安心して音楽を作る事が出来る。
ビジネスのシビアな部分は当然の事として横に置けば、自分の作品を作る時より幾分リラックスしているかも知れない。稼動している部分が違うのだとも感じる。痛みを感じる場所が違うのだ。
けれど良い状態のプロジェクトでは仕事という枠を取り外して一歩も二歩も踏み込んだスタンスをとる事もあるし、分野の違うスペシャリストの仕事ぶりに触発されて作ったビジネスの音楽がソロ作品に流用される事も少なくない。
たとえばコマーシャルのために作曲したごく短いフレーズが永久に連なるモビールのように無限のイメージを呼び、幾つかの自分のための作品にひょっこり生まれ変わるような事。
懐かしい気分になる瞬間。
嬉しくて温かい気持ちにさせられるけれど、でも特別でもない、ありふれた、平凡な匂いに満ちた瞬間。

反芻し、消化されずに吐き出したものはまた反芻し、繰り返すうちに自分自身をも反芻する永久運動。その回転のど真ん中にいるのが、取りあえずは面白くて仕方が無い。
でも肝心要のここぞという時には、案外冷めた無感動な私が一生懸命ドスを利かせているのだ。

(了)-2000.11.13-