第13回 『ラブソング』

 私のつくるラブソングは、とても個人的な体験や記憶を歌ったものですと涼しい顔で言ってみたい、一度でいいから。
かなり前、1stアルバムを出した直後のインタビューで勢いその手の話になりかけたが、場の空気に何故だかちょっと「荒れ」を感じた事があった。マズイと思い、すぐさま話の矛先を逃がした。
そして再び誰かがその話題に立ち返ることは無かったのだ。
「荒れ」なのか、それとも「気まずさ」なのか、よくは分からなかった。インタビュアー、カメラマン、A&R担当氏、私、その場に居た全員が僅かながら硬直したように思う。ピキーーーーン。
まるでJA仙台のお米部門広報担当氏に向かっていきなり新潟県魚沼産の美味しいコシヒカリの話しをする様な分かりやすいタイプの野暮。・・・例えは今一歩だが、マヌケなくせに妙に緊迫感を孕む、ズレた話題だったのだろう。

 しかし今の私ならば「荒れ」や「ズレ」など恐れず、無理矢理核心に突入してしまうかも知れない。
なぜなら現在の私は、対外的にはそこそこ説明しやすい経歴や環境や人間関係に守られているからだ。
私はこんな活動をしていて、この時間帯にテレビをつければ私の歌が聴けて、私の伴侶はどこの誰で、必要なら名刺もあります、ホームページも開いてます、昔のCDはMP3でダウンロードできます、 という具合。
何をでっち上げようが、偏向した恋愛論を語ろうが、「フィクション」だと周りの皆が解釈してくれる便利な立場にいる。
故に気まずい核心に触れたところで、常識から少し逸脱した価値観や、世間の基準にあてはまらない不規則な生活など、音楽の世界の住人にとってはおよそ当たり前の話しの延長線上をうろうろするだけだ。
面白がれる逸話など出てきはしない。だからこそ、こちら側も向こう側も安心していられるのだろう。

 以前は、かなり状況が違っていた。以前と言ってもここ14〜5年ほどの事だ。
メーカー主催のコンテストやオーディションが、やたらと幅を効かせていた時代とも言える。
メーカーだけでなく色んな業種の団体が積極的にコンテストを主催していた。
友人のバンドなんか毎週異なるコンテストに応募していて、大学に顔を出す暇も無いんだよと妙に 嬉しそうにしていた位だから、アマチュアにとっては憧れの音楽業界の空気に少しでも触れられる数少ないチャンスだったのだろう。

アマチュア層全体がそんな感じだったから、当然コンテストで見い出された経歴も無い新人が音楽業界でのびのび活動するなんて許されないかの様な雰囲気があった。
大袈裟だが、コンテスト未経験者の私にとっては由々しき状況だ。
◯◯ディレクターの紹介、というだけでは充分まだまだ怪しい存在だったらしい。

たまに軽〜いお仕事に呼ばれた時とか、知り合いの又知り合いのアーティストさんの打ち上げに連れて行かされた席上とか、要するにぜんぜん重要な役回りでは無い居心地の悪さも手伝って、どこか人待ち顔になってしまっている新米ミュージシャンの私に、根掘り葉掘り質問を浴びせかける人達がいた。
そもそもそのディレクターとはどんな関係で知り合ったのか、事務所に入っているのか、音域はどこからどこまで出るのか等々、どうでもいいような事ばかり色んな人に説明しなくてはならなかったのだ。
不思議だったのは、どんな曲を作っているのかと質問された記憶が、殆ど無いこと。
この人達は一体何を求めて新しい人材と接触しているのか、正直なところ失望した。

この場合この人達とは、役割のはっきりしない不明瞭な立場のどこかの事務所スタッフさん的な人達・・・ 曖昧な表現だが、当時はこんな表現をせざるを得ない様な人達が結構いたように思う。
適当に業界生活が長そうで、なんだか調子の良い事ばかり喋っている割にはケチで挙動が不審な・・・って酷いことばかり書いてしまいそうな自分がコワイ。何せその種の人達にはホントに良いイメージが無い。ほとんどの人は散り散りになって、姿を見なくなってから随分と経つ。
今となっては懐かしい、幻となってしまった謎の人種。
しかしその人達がもたらした"失望"が現在の私の音楽的スタミナの元になり、納得のいく仕事を選んでベストを尽くす原動力となっている事は、確かだ。
何ごとも、お薬である。  

 正体や素性のよく分からない人間は、警戒される。
どこの世界でも当たり前だが、こと音楽の世界は、入社試験や履歴書の必要も無いまま平気で仕事をしてゆく事ができる、珍しい職種だ。
多くの音楽家はフリーランスで、生活面において何の保障も無い。
身分を示す書類など存在せず、その気になれば本当の生年月日を誰にも知らせずに、自分とは関係のない世代の一員になりすまして生きてゆく事だって出来るのだ。
よくよく考えてみると、なんてヤクザな稼業なんだろう。
そんないい加減な社会の中で、その人がその人たり得る数少ない立証法の一つに、「誰々が連れてきた」というのがある。もうこれ以上いい加減なものは無いと言う位いい加減な立証法だが、これが無ければ 誰からも信用されない。
どんなにギターが上手くても、中途半端に上手ければ上手い程、かえって怪しまれるのだ。
誰かが責任を持って、その人間の能力や人間性を保証し、何度か共に演奏したりお酒を飲んだりした暁に、晴れてあるグループの一員としてようやく迎えられる。
ヤクザなくせに大変な高級料亭のごとき手順を必要とするところが、可笑しい。

 コンテストや派閥(!)らしい派閥を通過して来なかった私も、色々あるにはあったが今現在はとってものびのびと居心地の良いスタンスを確保したように思う。
安定した生活の場は、前向きな精神状態を支えてくれる。
もし仮にたった独りで暮らしていたならば、恐らく切り抜けられなかった筈の幾つかの局面を何とかやり過ごす事が出来たのは、私を守ってくれる環境や人間関係のお陰だろう。
今は細かい不安さえ、未知の感情を楽しむための強力なスパイスだ。

 ただ哀しみにくれているだけでは哀しみは表現できない。
哀しみは哀しみを支える事が出来ないのだ。
哀しみを支える体力があって初めて、晴れやかに哀しみを他者に向かって歌う事ができる。
同様に、胡散臭さや妖しさを演出するには、スタッフや同業者から人並み以上の信頼を得なくてはならない。
本当に胡散臭いものに誰も力を貸したりはしないからだ。

 「私のつくるラブソングはとても個人的な体験や記憶を歌ったものです」と涼しい顔で言ってのけるためには、それがフィクションであってもそうでなくても、現在の私自身が安全で隠し事の無い環境の住人であることを先ず証明して見せなくてはならなかった。
かつてインタビュアーを僅かに硬直させた無神経な私の居場所には、きっと風通しの良い廊下など存在しなかったのだろう。私の眉間には女の情念とも言うべきカルマが渦巻いていたかも知れない。

 物事を何でもさっぱりと受け入れられる様になってから久しいが、ここ最近、より一層さっぱりとした喉越しを自分で感じる。こんなに外界に対してわだかまりが無くなっては、歌を作るのに支障を来たすのではないかと、逆に心配になる程だ。
そろそろ疑り深く慎重に、心の奥底深く沈んだパンドラの箱を探しに行こうかと、温室の様に暖かくなった部屋の中でのんびりと思索を巡らせている。

(了) -1999.11.23-