第7回 『スタジオミュージシャン』

 この業界に片足を突っ込んでしまった頃、どんな仕事でも面白半分に、取りあえず請けてみた。
なにしろ今を遡ること10数年前。右も左も皆目わからずアドバイザーも居ないに等しい。
当然ギャラもささやかな申し訳程度のものだったが、仕事としての意識も薄く、ごく気楽に遊びに寄らせて貰いましたという感じだった。

コーラスワークがほとんどで、手ブラで行き、譜面が用意してあればその通りに歌う。
短時間で終わる軽労働だ。ふつうのミュージシャンの10分の1のギャラで、初見でコーラス譜が読めて、コードが書いてあればハーモニーまで適当に付けてくれるとなれば、アレンジャーにとっては便利なコーラスガールだっただろう。

事務所に所属していないから、しつこくギャラの交渉をしてくるマネージャーも居ない。見れば本人もお気楽な呑気やさんのようだ。
この仕事量でこのギャラはちょっとマズイかも知れないが、駆け出しのようだし、まあいっか・・・。

と、当時の現場にいたディレクターが思ったか思わなかったかは定かで無いが、とにかく適当に仕事は回ってきた。ほんのお小遣い程度にしかならないが物珍しくもあり、きっとあの頃は何でも楽しかったのだ。

「ヘンな声」「ほっといても一人でどんどん重ねてくれる」「ブルガリアンヴォイスの真似っこができる」などの理由から、一風変わった仕事の依頼もあった。

「笑い声が欲しい、しかも下品に」とか、「叫んでください」など。
なかには「訳の分からない国籍不明の言葉でなにか唸っていて欲しい」という怪しげなものまで。
だがこういう仕事は却って面白いものだ。つまらないものは「アー」とか「ウー」とか 「シャラランラー、テュッテュルー」などの取るに足らない路線で、そういうものに限ってやれ音程がとか、やれ暗くならない様にだとか、チェックが細かい。

どうもギャラが低すぎるらしい事にも気付き始め、こんなことでいいんだろうかと人並みにむかつき出した頃、今の主人のプロデュースでソロアルバムを出した。
89年にリリースした「無造作に愛しなさい。」だ。
それまでためていた50曲ほどの中から11曲をセレクトし、一夏かけてレコーディングしたのだ。

アルバムが発売されても身辺に特にこれと言った変化はなく、知り合いのライブのオープニングアクトをつとめても聴衆には歓迎されているようないないような、心もとない反応。
相変わらずお安いお仕事を平気で頼んでくる業界人も居て、こんなものなのかと黄昏れていたある日、「あなたのCDをコマーシャルで使わせていただきたい」という電話が来る。
某CMプロダクションのディレクターからだった。
早速お会いすると、私のCDを隅から隅までじっくり聴いて下さっている様子がお話の端々からも窺えて、とても感激した。

大学時代の先輩で当時売れっ子CM作家の栗原正己氏を通じて、私のCDの存在を知ったのだとのこと。
栗原氏はその後、異色リコーダー集団「栗コーダーカルテット」を率いることとなるのは既知の通りだ。 感じの良い映像だし曲のイメージを損なうことはない、という先方の説明通り、ほのぼのとしたアニメーションを表わすシンプルな絵コンテ。

「タイアップとまではいかないけれどオンエアーで名前は出るしプロモーションの一環になれば良いですね。」 汗をかきながらの良心的な説明に「おまかせします」と、全てを委ねることになった。
彼等の尽力の甲斐あって最終候補には残ったものの、結局クライアント関係者の親戚のお嬢さんの歌を 採用することになり、私にはそのCMのサウンドロゴの作曲が任された。
そのサウンドロゴが、私の初CM作品だ。

残念ながら手許には当時の音資料が残っていない。
帰り際にしっかりとテープを頂いたはずだが、当時は所詮アマチュアに毛がはえたようなフニャフニャのプー太郎だ。我が家のどこかに潜んでいるのか、失くしてしまったのか、情けないことに不明。
一度限りの仕事という甘い認識だったのか、それとも初仕事とはそういうものなのか。
ともかくその仕事の後、ちょこちょことCMの作曲依頼が来るようになった。

CMディレクターという人達はとても交流好きで、アンテナを張り巡らせては常にお互いの情報を交換しあっている。
どのCMプロダクションでも新しい作家を求めていた時期なのかも知れない。徐々にではあるが依頼は増えていき、気がつくと自分のライブもままならないほどCMに掛りっきりになっていた。

バブル後の不景気の中、友人や同業者にはとても羨ましがられたが、本人にとっては相当大変だった。なにしろ一人なのだ。
音楽以外にもお金の交渉事やバイク便の手配、作品集テープの編集、時期を見て作曲料や演奏料を上げる必要もある。
その合間に自分の音楽。
ライブハウスとの打ち合わせ、チラシやDMの手配、手伝ってくれるメンバーのスケジュールを把握してリハーサルのブッキング、情報誌への掲載チェック、DMのラベル貼りや発送、譜面のコピーやらその他いろいろ。

もちろん助けてくれる友人はいたが、殆どは自分でこなさなければならない。
一見大成功のように見えても、協賛も何も付かない自力のイベントというのは間違い無く赤字だ。仕事による経済的な支え無くしては、おなご一人でこの状況はとても続けられなかっただろう。

数年前からはさすがに無理を感じて、音楽に専念できるよう環境整備も能力の内と考えるようになった。
お金の計算は昔から大の苦手なのだ。
体力や時間との戦いであるコマーシャルの世界から、じっくり作れるアルバム物の詞曲や番組の楽曲へと、私の仕事もだいぶ様変わりした。

 スタジオミュージシャンとして、ごく偶にだが外のスタジオに出向くこともある。
たいていは気心の知れた友人の現場で、私の力量や持ち味をよく知った上での色んな注文を出す。 しかし最後はあくまでも私なりのアプローチが求められるのだ。
なんとなく軽い気持ちで仕事をこなしていた10数年前とは面白味も桁外れだ。

自分から深く関わっていくことで、新しい発見をする。
無垢で無防備な気持ちのまま、見知らぬ音楽のなかに遊ぶ。
そのためには暗黙の了解として周りが許す、痛い迄にひたむきな遊びの領域がなくてはならないし、一朝一夕に獲得できるものではないだろう。
技術を超えた、時間の積み重ねと心の問題だ。

 書いているうちに、本当に自分が弱輩ものに思えてきた。
修行は果てしなく続くのだ。               

(了) -1999.10.3-